【精神病】言語化できない自分の症状を他人に伝える方法
“精神病”には様々な症状があり、様々な感情がつきまとう。その症状や感情を他人に伝えたいのに、うまく言語化できないせいで余計なストレスを感じたり、悲しい気持ちになったりする。わかってほしいひとがいない、誰かにわかってもらわなくてもいい方、あなたは十分強い。強いが故にうつになってしまわれたのだと推察します。孤独な戦いですよね。今のいちばんつらいところを越えて、誰かに伝えたくなったときにお役にたてるかもしれない情報をこの先に書きます。実際わたしはそれで腫れ物に触るようにしていた母親に、わたしのつらさとわたしが今望むことを理解してもらいました。
インターネットのサイトを使うのは避けましょう。素人ライターたちが専門家の意見を薄めて自己解釈して書いたものが多いからです。もしくは、わたしみたいな一般人のただの病人が主観的な立場でだらだら書き連ねたものばかりだからです。わたしの他にもつらい思いをしてるひとがいる、という連帯感を感じるためには必要ですが、うつを経験したことのない他者へのプレゼンテーションには適していません。
ではどうするのか。
①本屋さんに行ってください。図書館でもかまいません。
②そして“あなたの精神病についての本”を購入、もしくは借りてください。
③次に100均に行き、ふせんを購入してください。
④おうちに帰って読みながらこれだ、と思うところにふせんを貼り付けてください。
⑤伝えたい人に『ふせんのところだけでもいいから読んでくれ』と渡します。
以上です。
世の中にはあなたの精神病についてめちゃくちゃ研究してる人たちが山ほどいます。その頭のいい人たちが山ほど本を書いています。専門家が専門家としての知識と言葉で書いた本です。あなたのもやもやが言語化されていることにびっくりすると思います。わたしはびっくりしました。あっ、これやんけの連続でした。なんかしらの精神病かもしれないから相談したい方にもおすすめです。あっ、これやんけってものが見つかるかもしれません。その場合、勝手に思い込まないでください。必ず病院へ行って、正確な診断結果を得てください。思い込みにより悪化することもあるし、病院へ行かない限り症状がなくなることはないからです。
以下、ネット情報を読んでそれっぽいと思ったあなたにチェックしてほしい本です。ページ数はあまりないので読書の負荷がありません。図解が多く、あっ、これやんけがしやすいです。こんなのもあるのか、という意味でも興味をそそられると思います。
この『○○のことがよくわかる本』シリーズには他にも『双極性障害』とか『各種パーソナリティ障害』とかいろいろ出てるので読んでみるとあっこれやんけが発見できるかもしれません。
自己への気づきがあることからでしか自己は変化できない。
あなたが今より少しでも楽になるために、前進してください。
いじめを受けたことがあるひとすべてに捧げる【聲の形】
『声を聞く』にはどうすればいいのか。健常者は何もしなくても声が聞こえると思っていたら大間違いだ。ひとの脳みそは便利で有能なので聞きたくないことは耳から入っても脳みそで処理されない。理解できていなければこれは『声を聞く』ことにはならない。『声を聞く』とは相手がいることを認識して、理解し、受け入れることである。
『聲の形』を観に行ったきっかけはもう覚えていない。評判が良さそうだったからとかそんなありきたりな理由だったと思う。もちろんひとりで観に行った。仕事終わりのレイトショー。中程度の広さのシアターでお客さんはまばらだった。いかにもオタクな男性もいたし、きれいな女の子もいたように思う。予備知識は『聾唖のおんなのこが出てくる』ということだけ。途中までは絵の美しさと自然な感情表現に平常心で見れていた。
“退屈すること”を何よりも嫌う少年、石田将也。
ガキ大将だった小学生の彼は、転校生の少女、西宮硝子へ無邪気な好奇心を持つ。
彼女が来たことを期に、少年は退屈から解放された日々を手に入れた。
しかし、硝子とのある出来事がきっかけで将也は周囲から孤立してしまう。
やがて五年の時を経て、別々の場所で高校生へと成長したふたり。
“ある出来事”以来、固く心を閉ざしていた将也は硝子の元を訪ねる。
これはひとりの少年が、少女を、周りの人たちを、そして自分を受け入れようとする物語ー
映画『聲の形』公式サイトより
ふたりはそれぞれにいじめを受ける。将也はいじめる側からいじめられる側へ“転落”する。“心を閉ざした”将也は周囲の人間の顔に『ばってん』をつける。相手の顔が見えなくなるのだ。顔が見えない相手の『声』は届かなくなる。何を言われているのかわからないので自分は傷つかない。そうやって心を守る。聾唖者である硝子は声が出ない。音は出るが正しい言葉で伝えられない。それでも懸命に『しゃべる』。どんないじめにもくじけず、明るく、前向きで、積極的に様々な方法で心を伝えてコミュニケーションをとろうとする。対照的なふたり。そんなふたりのうち、わたしが強く共感したのは将也だった。小学生のわたしは役付きの遊びで人間役になれたことがない。本当は人間役で人間役のひとたちと地面に書かれた“家”のなかで会話がしてみたかったが、それでかまわないという態度をとり続けた。みんなの顔に『ばってん』をつけた。中学生になって、仲良しグループのなかでいじめがはじまった。わたしは面倒くさいと思った。だからいじめの標的にされた子と仲良くし続けた。わたしは一緒にハブられた。わたしは登場人物全員に『ばってん』をつけた。もう何年も前から家族にも先生にも真っ黒な『ばってん』をつけていたので、おともだちの顔を黒く塗りつぶすことなんか朝飯前だった。高校受験も佳境に入った頃、食事の手伝いをしなかったという理由で父親に部屋に乗り込まれ、机から引きずり落とされた。一緒に転がったピンセットのようなものが手のひらに食い込み、出血した。「手伝えないなら喰うな!働かざる者喰うべからず!」。止まらない血を見つめながら、わたしは自分の顔に『ばってん』をつけた。
わたしは、必要ない。
映画の最後、将也はわたしを裏切って『ばってん』をはらりと落とす。すると周囲にあふれる“聲”がどっと将也を包む。“聲”は将也の世界を光と色であふれさせる。みんなの顔がわかる。みえる。自分はここにいる。ここにいていい場所だと確信する。世界に自分が受け入れられたことを理解する。声が聞こえる。みんなの声が、聞こえる。
ずるい、と思った。うらやましい、とも。
それで大泣きしてしまった。座席を揺らすほど嗚咽した。シアターを出ても涙は止まらず、車のなかでさらに泣いた。車を出発させても涙があふれてきて、10mおきに駐めた。
『ばってん』の隙間から世界をのぞく。
『聲の形』はまだ分からない。
ちなみに漫画原作のラストが映画より好きなのでぜひ読んでもらいたい。
将也、イケメンすぎんぜ、おまえ。
スイッチが落ちた日
こういう日記を書いた。
生まれて30年間苦しみ抜いたわたしの闇は“うつ病”という名前のついた病気であることがようやく分かって、念願の薬物治療がはじまった。薬の威力はすさまじく、わたしは生まれて初めての透明な世界を味わっていた。なにより驚いたのは夜、疲れ果てて自分の世話もせず寝込んでしまうことがなくなった。昼間、頑張らなくても普通にしていられる。朝、世界が明るい。完治したと思った。こんな小さな薬を飲むだけで“普通に”戻れた。『夏が来れば治りますよ』と内科で言われたことを思い出す。確かにあのときも薬を飲まずとも夏には引っ越しを済ませることができた。そうか、季節性のものだったのか。そしてわたしは春から始めた通院を夏頃に止めてしまった。
一年間はどうにか暮らすことができた。波はあったが、耐えられるレベルだった。物心ついた時から乗りこなしてきた波なので、乗りこなすことが当たり前だった。再び疲れ果てて夜帰る生活が始まっただけだ。職場では120%のわたしで挑む、プライベートは全力で遊ぶ、常にしにたい。消えてしまいたい。でもこれがわたしなんだ。しにたいって言ってるうちはしなない、といろんなひとが言っていた。しにたい、とSNSに書き込んだ。真剣には言えないから茶化して書き込んだ。本心は大波だった。でも実行に移さない自信があった。実行に移す勇気もない、中途半端な人間がわたしである。だからしにはしない。ただ、ひとよりしにたいだけ。おじいちゃん先生に言われたことを思い出す。
『ひとはね、普通は死にたいと思わないものなんだよ』
嘘だと思った。ほんとうはしにたいけどしにたいと言わないだけでほんとうはしにたいんだろみんな。しにたくないひとは特別製のしあわせな脳みそをしていて、しあわせな人生をおくっているんだ。そんな勝ち組なんて一握りだ。ほとんどのひとはそうじゃない。自分の不幸にズブズブに浸って、悲観して、消えたいと思っているはず。だから家族とか恋人とか親友とか作って、しなない理由を増やして生きているんだ。わたしはその衝動がすこし強いだけ。誰も信じられないだけ。孤独かどうかの違いしかないだけ。しなない理由を作らないだけ。
そうして一年後、スイッチが落ちた。
以下は当時に、Wordに走り書きしたメモ。
7月8日 バチンと音を立ててスイッチがおちた。あまりに唐突だったので、はっきり実感を伴ってYahoo!の検索窓に【スイッチがおちた】と入力していた。検索結果に任天堂のゲーム機のトラブルシューティングがずらりと並んでいて、ああそうかスイッチがおちるというのは機械に使う言葉であって、人間につかうものではないのかと、昔からあまりに馴染んだ感覚が一般的ではないことをいまさらのように理解しただけだった。
とにかくスイッチがおちてしまったので、待機状態になってしまったわたしは次の動作ができない。認識はしているけれど、思考ができない。暗い室内で帯電しているテレビ画面のようにぼんやりと発光している世界を見ている。元気いっぱいに輝く緑色のパイロットランプと、オフモードのオレンジ色の印象。わたしはいま、オレンジ色だ。
それでも惰性で生活を続けた。頭のなかのザワザワがうるさい。視界が非常に狭い。やるべき仕事をたんたんとこなす以外のことができない。話しかけられた内容が理解できない。食事が煩わしい。味がしない。睡眠時間がおかしい。空っぽなわたしという容器に重油のような黒い液体が満たしている。記憶がない。朝、通勤途中の車の中で涙が止まらなくなった。道路脇に車を寄せ、ハザードランプを点けた。震える指で会社に電話し、涙が止まらなくなったので病院に行く旨を正直に伝えた。電話を取ってくれた数少ない信頼できる上司のひとりが、少しだけ息を吞んだのを不思議とはっきり思い出せる。そうして向かったおじいちゃん先生の精神科は、
なくなっていた。
頭の中が真っ白になって、しばらく駐車場の車の中で放心した。それでもなんとかしなければ。スマホで検索した他の病院に直接行って話をしたが、どこも数ヶ月先まで予約でいっぱいだった。ほらみろ、みんな病んでるんじゃないか。と冷めた自分がいて、ぼろぼろ泣きながらしにたいんです。と訴える自分がいた。最後に訪ねた心療内科で『自殺願望のあるひとはうちでは見きれません。ここに電話してください』と教えてもらった電話番号に電話した。「ここは入院が必要な患者さんの連絡先なのですが、あなたは入院が必要なのですか?」と聞かれて、わかりません、と正直に答えた。電話は切れた。次の日、わたしは会社にいた。ぼんやりはますますひどくて、青い空は灰色に見えた。
最後の望みをかけて、あまりいい噂をきかない病院に電話をした。
すぐに担当科に繋いでくれた。明日来てくださいと言われた。
新しい先生は自分のことをよくしゃべる先生だった。
適応障害からのうつ状態だけど、双極性障害もあるかもね、と言われた。
そうして再び薬物治療がはじまった。
借金があったので仕事は辞められなかった。
それでも闇は晴れなかった。
会社でパニックを起こして早退することもあった。
半年後、わたしは脳みそがクラッシュする。
後日、 おじいちゃん先生は亡くなったことを知った。
ありがとうございました、と言いたかった。
ありがとうございました、わたしに病院の素晴らしさを教えてくれて。
ありがとうございました、わたしに薬物治療の有効性を教えてくれて。
ありがとうございました、わたしを叱ってくれて。
それから、勝手に通院を止めてしまって、ほんとうにごめんなさい。
どうやって生きるのか、やりかたが未だにわからないです、先生。
無職三十路の双極性障害が残高490円から10万円貯金した話
2019年11月末の時点で通帳残高は490円だった。
クレジットカードの引き落とし日に間に合わなかったので、いつものように息をするようにキャッシングをして凌いだ。給料は10~16万円はあるのに、何十年も貯金をしたことはない。身の丈にあった国内旅行をして、田舎の量販店で高くもない服を買い、好きなだけ本を買い、食べたいものを食べる生活こそしていたが何百万の借金があるわけでもなく、それでも一日中支払いのことを考えていたような気がする。来月こそは節約しようと思っても、当月が来るといつも通りクレジットカードを使う。レシートはすべて捨ててしまう。どうせアプリから利用額も利用内容も分かるのだ。見るのは引き落とし額が決定してからだが。
食べるために働く。
生きるために働く。
支払いをするために働く。
働くっていうのはそういうことだと思っていた。
働くために生きているのだと思っていた。
みんなそうしていると思っていた。
そんなこんなしていたら、いろいろあって脳みそがクラッシュしてしまった。直接的な原因はどう考えても仕事環境にあったので、悩むことなくひかりのはやさで仕事を辞めた。最後の給料をもらい、溜めに溜めた有給を一気に使い、よくわからない手切れ金のような退職金をもらった。それで長年苦しんでいた毎月の給料を吹き飛ばす額の借金はなくなった。それから流れるように傷病手当を受け取る手続きをした。傷病手当は毎月約13万円。そこから年金やら国民保険やら市県民税やらが引き落とされ、任意保険やら個人年金やら通信費やらが引き落とされ、使えるお金は約6万円ということになった。幸か不幸か実家に部屋があるので家賃は発生しなかった。しかし、これ以上家族に迷惑はかけられない。わたしはよく回らない頭でもできることを実行した。
それは、
- すべてのレシートをノートに貼る
- 一週間で1ページ
- 一週間単位で足し算する
- 一日千円生活をする
- 使いすぎたら次の週で調整する
食費とか生活費とか遊興費とかの区分はしない。500円未満の買い物でも必ずレシートを貼る。チャージはチャージしたときのレシートを貼り、チャージで買ったものも貼る。リサイクル店に何かを売っても貼る。レシートがもらえない時には使った金額をノートに直接記入する。大好きなフリーマーケットに行くときは予算額を書く。予算額以上は財布に入れない。使わなければ余剰が増えるだけでデメリットはない。たったこれだけで一年でお年玉以来の貯金をすることができた。春までは6万円の枠いっぱいを使ってしまっていたが、今では余裕で3万円で欲しいものを手に入れて食事をして生活できている。あとはきちんと薬を飲んだり、食事を一日一食にしたり、洋服を全く買わなくなったり、図書館を活用するようになったり、世界的に旅行どころじゃなくなったこともプラスに働いたのでまた書く。
ペーパーレスが進んでレシートがなくなったら三十路、困るなあ。
◆1日1食生活について◆
「ゆっくり見たい映画」といえば【かもめ食堂】でしょ
『ゆっくり見ない映画』の定義が分からないが、『ゆっくりした気分になりたい時に見る映画』ならある。
【かもめ食堂】だ。
夏のある日、ヘルシンキの街角に「かもめ食堂」という小さな食堂がオープンしました。その店の主は日本人女性のサチエ(小林聡美)でした。道行く人がふらりと入ってきて、思い思いに自由な時間を過ごしてくれる。そんな風になればいい。そう思ったサチエは献立もシンプルで美味しいものをと考え、メインメニューはおにぎりになりました。しかし、興味本位に覗く人はいましたが、来る日も来る日も誰も来ない日が続きます。それでもサチエは毎日、食器をピカピカに磨き、夕方になるとプールで泳ぎ、家に帰って食事を作る、そして翌朝になると市場に寄って買い物をし、毎日きちんとお店を開く、ゆったりとしてヘルシンキの街と人々に、足並みを合わせるような、そんな時間を暮らしていました。
まずヘルシンキの街がいい。
ヘルシンキは言わずと知れた北欧の都市だ。北欧家具のイメージそのままに、直線的でスタイリッシュな町並み、白くてまぶしい太陽の光、元気で明るいのに清潔でごちゃごちゃしていない色彩、人間の本能に訴える“きちんとした風景”なのだ。映画事態のカラーバランスと相まって見ているだけで癒やされる画面構成。いい。
それから登場人物がいい。
役者さんの雰囲気が癒やされる画面構成にぴったりハマっている。ただそこに存在しているだけで素敵。ただそこで生活しているだけで素敵。人から少しだけ愛される存在でいてくれる素敵。小さな幸せを胸いっぱいに感じてくれる素敵。素敵がぎゅっとつまった人々しか出てこない。いい。
さらに出てくる食べ物がいい。
「日本食でごめんなさい」と仲間になる日本人観光客(観光客とは趣が違ったのだけど)に自宅で夕食をふるまうサチエ。いやいや、不安でいっぱいの旅行先で食べる、他人が炊いてくれた炊きたての白飯ほどうれしいごちそうはないでしょ。日本でもそう思うのだから海外だったらなおさらだ。ヘルシンキの平和の午後の明かりの中で湯気を立てるベーシックな日本食の数々。炊きたてごはんのおにぎりに巻かれたのりのパリパリ感。ああ、おなかがすいた。
もちろん物語がいい。
起伏はある。起伏はあるが、過剰な演出がない分、起伏を起伏と感じない。山も登ってしまえばちょっとした坂道の連続だったように、人生を大きく変えてしまう出来事が起きていても案外大きな難関だとは思わない。人生ってこんなちょっとしたことの積み重ねでできてるよなあとクッションにもたれながらゆっくり再確認する時間。いい。
同じような理由でこちらもおすすめ。
直線的でスタイリッシュで、白くてまぶしい太陽の光に映えて、元気で明るくて清潔でごちゃごちゃしていない色彩、人間の本能に訴える“きちんとした民宿”が出てくる。素敵な役者さんばかりが出てくるし、最高においしそうな“氷あずき”が出てくる。さらにこちらには最強のヒーリングサウンドである海が出てくる。いい。なんの変哲もない砂浜を裸足で感じながら潮風に髪をなでられて食べる“氷あずき”。最高だ。
ただ、難点をあげるとすればどちらも視聴中に『過剰に旅情をかきたてられる』点だろうか。しらない街のしらない風景に出会いたくなって仕方なくなる。映画でもいいんだよ。映画でもいいけどやっぱり、おいしいおにぎりやおいしい氷あずきをこの口に入れて、知らないところでゆっくり味わいたくなるじゃないか。
「あなたはうまれたときからうつですよ」と言われた話
こういう日記を書いた。
ここまでやらかしたのは人生最大だったが、それまでも予兆はたくさんあった。
わたしは幼いときの記憶がほとんどない。父親の原因不明の不機嫌スイッチを押してわめき散らされながら裸足で外に蹴り出された記憶や、執拗に箸の持ち方を指摘されてぶち切れた記憶や、眠るわたしに無理矢理添い寝して、子守歌を歌いながら身体を触る父親を拒否できない記憶など、とにかくわたしが嫌がることを徹底的に行ってくる父親とそれを止めさせない母親の記憶しかない。片付けられない両親により、本物の泥棒が入った時に警察の方に勘違いされたくらい部屋の中は荒れていて、父方の祖父は決定権を持たないわたしに口うるさく片付けを強要した。祖母も味方ではなく、二度と子育てはしたくないと面と向かって言われた。学校ではよい子を演じていたし、家庭でもよい子を演じていた。本当のわたしは四面楚歌だった。
毎日が鬱々としていたことは覚えている。幼稚園では誰とも口をきかず、ずっとひとりで読める文字を増やしていった。小学校ではうわべだけの友達が大半をしめ、中学校ではその感覚がエスカレートした。高校になると男性嫌いが顕著になり、かといって女性の友人を作る努力もせず、誰にでもいい顔をして、心の中では勝手に孤独になっていった。その頃には学校嫌いも併発していたと思う。しかし、誰にも相談できなかった。学校へ行くとなると遅刻し、ひどいときには朝起きたのに廊下で眠ってしまう。登校拒否は明らかだった。面倒だと思われて母親に捨てられたらしぬしかない。だから心配をかけないようにせねば。その一念がわたしを必死に動かしていた。
毎日しにたかった。
もう全部終わりにしたかった。
そうこうするうちに人生に対して努力をすることを止めてしまっていたわたしは何も考えずに都会の専門学校へ進む。両親は無言でお金をくれた。ようやく実家から出られた一人暮らしは最悪だった。大した信念も持たずに進学したため、なんのためにここにいるのかあっという間に分からなくなった。するとなんのために生きているのか分からなくなった。とりあえずお金が欲しくてバイトを始めた。バイトをするとお金がもらえる。お金があればやりたいことができる。やりたいことをするために人生がある。ならば、お金を稼がなければ。中身のない生活を続けていくうちに学校は中退した。学校を中退する頃には完全にうつだった。昼でも薄暗い部屋の中で枕の中身をぶちぶちとひっぱり出しながら病院へ行こうと思った。当時はひとりで精神科へ行くのが怖すぎたので適当な内科へ向かった。
「夏になれば治りますよ」
薬は出なかった。へぇ、そういうもんかと思った。だが、当たり前なのだが夏になっても治らない。治らないが人生は急進する。地元でお世話になった方から就職のお誘いがあったのだ。就職すればもっとお金が稼げる。わたしはふたつ返事で地獄の実家に舞い戻る。都会での一人暮らしという貴重な機会をすべてを捨てて就職した地元の会社はパワハラの強要がひどくて一週間で辞めた。それからすぐに販売業に転職して、10年は平穏に過ごした。家に帰ると全身がだるく、食事もとらずに寝てしまうような正確には全く平穏ではない生活だったが、少なくとも一人暮らしのあの暗い部屋にいるよりは明るく過ごした。家族はわたしがどんなに塞ぎ込んでいても意に介すことはなかった。そうして5年前にさらなる安定を求めて事務仕事へ転職する。しかし、転職先で再びパワハラに遭い、ある日出勤中の車の中で涙が止まらなくなった。しにたい。しぬのも面倒くさい。もう、消えてしまいたい。消えてしまう前に幼い頃からずっとつきまとうこのどす黒く粘度を持った感情がうつというものなのかを確認するために、今度こそきちんとした精神科に行くことにした。
そうして向かった精神科で、診察開始直後に言われたのだ。
「あなたはうまれたときからうつですよ」
透明な涙が止まらなくなってしまった。この時に流した涙を涙と呼ぶのなら、今まで流してきた涙はドロドロで半分血液だったと思う。みんな本当は死にたいのに歯を食いしばり、必死で生きる理由を探して生きているのだと思っていました。そう泣きながら伝えた。おじいちゃん先生はやわらかい無表情で、そんな真剣に生きてる人はそんなにいないよ。あなたは頑張りすぎ。脳みその構造がそうなってるんだと思うよ。お薬を出すね。精神安定剤と幸せを感じる物質の再吸収を抑えるお薬です。と簡潔に説明した。この先生と出会えたから今もわたしは生きているのだと確信している。誘惑に負けて薬を一気に取り過ぎてしまったことがあった。いつもはやさしい先生が初めて怒気を込め、「治す気がないならもう薬は出さない」と真剣に叱ってくれた。真剣に叱ってくれた大人は38年間の人生の中ではひとりだけだ。先生のおかげで生まれて初めて身体が軽くなり、世界が透明に見えた。わたしはおろかにも完治したと思った。そして、通院を勝手に辞めてしまう。
本当の地獄はここからだった。
『IQ水準が比較的高い知的障害者』って言葉を知った本。
ホールケーキを3等分にすることはできる。
5つのリンゴを3人で分けることもできる。
たくさんの星を5つずつ丸で囲むこともできる。
100-7もできる。
93-8もできる。
しかし、『知的に問題ない』と『問題ない』は違う。
わたしには人生のレールが見えたことがない。
レールの上を走るだけの人生は嫌だとよく聞くが、わたしにはレールが見えていないのだから外れようがない。足下も見えない暗闇の中、一瞬光る明かりを頼りにとにかくそちらへ向かって前進する。すると壁だったり崖だったりに突き当たる。そこで初めて考える。なぜこんなことになってしまったのか、と。
非行少年に共通する特徴5点セット+1
- 認知機能の弱さ……見たり聞いたり想像する力が弱い
- 感情統制の弱さ……感情をコントロールするのが苦手。すぐにキレる
- 融通の利かなさ……何でも思いつきでやってしまう。予想外のことに弱い
- 不適切な自己評価……自分の問題点が分からない。自信があり過ぎる。なさ過ぎる
- 対人スキルの乏しさ……人とのコミュニケーションが苦手
それから『身体的不器用さ』力加減ができないとか、身体の使い方が不器用という意味だ。(P.47-48)
心当たりがあり過ぎた。わたしは真面目すぎるくらい真面目な学生だったので非行経験はないが、自分の人生に対して非行的な態度で臨んでいたのだ。 与えられた餌に飛びつくとそれからどうなるのかを自分のこととして考えられなくなる。やりたくなったらやらずにはおれず、後先のことは考えず全力でやってしまう。知識や能力がなくてもなんとかなってしまう器用貧乏なので、とにかくできてしまう。なのに裏付ける能力はないので常に自信がない。人が嫌い。
そうか、わたしは非行少女だったのか。
複雑な図形を書き写すことができるのに、賢くはなかったのだ。
非行的な態度のせいで惨めな今の自分があるし、非行的な態度のおかげで今の思い切った性格を手に入れたわけだけど。こうなりたい自分が具体的になかった中学生のわたしに読ませてあげたかったな。
それから、ADHDとかASDって言葉が巷に出回り初めて久しいけれど、人様に迷惑をかけることがどれだけつらいことか理解しているひとっていうのもあんまりいない気がする。いいよいいよ大丈夫だよ、がどれだけ彼らを追い詰めているのか。
第6章で『褒める教育だけでは問題は解決しない』ってことが語られるのだが、張り子の牛の人形みたいに首を縦に振り続けた。
“褒める”、“話を聞いてあげる”は、なんの解決にもならない。
例えば、勉強ができなくてイライラしている子供に対して「走るのは速いよ」と褒めたり、「勉強ができなくてイライラしていたんだね」と話を聞いてあげても勉強ができない事実は変わらない。(P.123-124)
ではどうするのか。
具体的な解決策がもちろん提示されているのでぜひ読んでいただきたい。
今のわたしを「でも生きてるじゃない」と褒めたり、「つらかったんだね」と声をかけてもなんの解決にもならないってことだ。納得すぎる。
納得すぎるけど、認知は解決への第一歩だとも、思う。
最後に書き初めして部屋に張っておきたいくらいの名言を引用する。
◆自尊心を高めるとは、どういうことなのか。
①自己への気づきがあること
そして様々な体験や教育を受ける中で、
②自己評価が向上すること (P.152)
頭が良さそうに見えて実は複雑な図形を書き写すことができない人、というのもいそうな気がする。
『子どもの心に扉があるとすれば、その取手は内側にしかついていない』