きのさんのブログ

書きたいことを書きたいだけ

いじめを受けたことがあるひとすべてに捧げる【聲の形】

『声を聞く』にはどうすればいいのか。健常者は何もしなくても声が聞こえると思っていたら大間違いだ。ひとの脳みそは便利で有能なので聞きたくないことは耳から入っても脳みそで処理されない。理解できていなければこれは『声を聞く』ことにはならない。『声を聞く』とは相手がいることを認識して、理解し、受け入れることである。

 

聲の形』を観に行ったきっかけはもう覚えていない。評判が良さそうだったからとかそんなありきたりな理由だったと思う。もちろんひとりで観に行った。仕事終わりのレイトショー。中程度の広さのシアターでお客さんはまばらだった。いかにもオタクな男性もいたし、きれいな女の子もいたように思う。予備知識は『聾唖のおんなのこが出てくる』ということだけ。途中までは絵の美しさと自然な感情表現に平常心で見れていた。

 

“退屈すること”を何よりも嫌う少年、石田将也。

ガキ大将だった小学生の彼は、転校生の少女、西宮硝子へ無邪気な好奇心を持つ。

彼女が来たことを期に、少年は退屈から解放された日々を手に入れた。

しかし、硝子とのある出来事がきっかけで将也は周囲から孤立してしまう。

 

やがて五年の時を経て、別々の場所で高校生へと成長したふたり。

“ある出来事”以来、固く心を閉ざしていた将也は硝子の元を訪ねる。

これはひとりの少年が、少女を、周りの人たちを、そして自分を受け入れようとする物語ー

                   映画『聲の形』公式サイトより

 

koenokatachi-movie.com

 

ふたりはそれぞれにいじめを受ける。将也はいじめる側からいじめられる側へ“転落”する。“心を閉ざした”将也は周囲の人間の顔に『ばってん』をつける。相手の顔が見えなくなるのだ。顔が見えない相手の『声』は届かなくなる。何を言われているのかわからないので自分は傷つかない。そうやって心を守る。聾唖者である硝子は声が出ない。音は出るが正しい言葉で伝えられない。それでも懸命に『しゃべる』。どんないじめにもくじけず、明るく、前向きで、積極的に様々な方法で心を伝えてコミュニケーションをとろうとする。対照的なふたり。そんなふたりのうち、わたしが強く共感したのは将也だった。小学生のわたしは役付きの遊びで人間役になれたことがない。本当は人間役で人間役のひとたちと地面に書かれた“家”のなかで会話がしてみたかったが、それでかまわないという態度をとり続けた。みんなの顔に『ばってん』をつけた。中学生になって、仲良しグループのなかでいじめがはじまった。わたしは面倒くさいと思った。だからいじめの標的にされた子と仲良くし続けた。わたしは一緒にハブられた。わたしは登場人物全員に『ばってん』をつけた。もう何年も前から家族にも先生にも真っ黒な『ばってん』をつけていたので、おともだちの顔を黒く塗りつぶすことなんか朝飯前だった。高校受験も佳境に入った頃、食事の手伝いをしなかったという理由で父親に部屋に乗り込まれ、机から引きずり落とされた。一緒に転がったピンセットのようなものが手のひらに食い込み、出血した。「手伝えないなら喰うな!働かざる者喰うべからず!」。止まらない血を見つめながら、わたしは自分の顔に『ばってん』をつけた。

 

わたしは、必要ない。

 

映画の最後、将也はわたしを裏切って『ばってん』をはらりと落とす。すると周囲にあふれる“聲”がどっと将也を包む。“聲”は将也の世界を光と色であふれさせる。みんなの顔がわかる。みえる。自分はここにいる。ここにいていい場所だと確信する。世界に自分が受け入れられたことを理解する。声が聞こえる。みんなの声が、聞こえる。

 

ずるい、と思った。うらやましい、とも。

 

それで大泣きしてしまった。座席を揺らすほど嗚咽した。シアターを出ても涙は止まらず、車のなかでさらに泣いた。車を出発させても涙があふれてきて、10mおきに駐めた。

 

『ばってん』の隙間から世界をのぞく。

聲の形』はまだ分からない。

 

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なかまたちもみんないいこなんだこれが。


ちなみに漫画原作のラストが映画より好きなのでぜひ読んでもらいたい。 
将也、イケメンすぎんぜ、おまえ。

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